2026/04/13 (MON)

チャプレンより聖書のことば

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
(ヨハネによる福音書第20章19~23節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤 一太郎
復活のイエスは弟子たちと再会され、キリストの弟子が果たす任務を託されます。ですが、この箇所だけを抜き取って読むと、罪を赦す権威・権能を弟子たちに与えられたかのように読めてしまいます。実際、後の時代に教会が社会全体に対して権威・権力を振るう根拠の一つとして乱用されましたし、現代にまで残る様々な問題を生み出しています。考えて見ればこの時点では教会はまだ組織されていませんので、罪を赦す権威を教会に与えたとするのは拡大解釈に過ぎるでしょう。「あなたがたに平和があるように」との言葉に表されるように、イエスの本意は私たちの世界に真の平和をもたらすことであり、イエスをこの世に遣わされた神の本意でもあったのです。そして、「あなたがた」とはイエスの目の前の弟子たちばかりでなく、現代に生きる私たちも含めたすべての人類を指していると考えます。

私たちの世界に平和をもたらす鍵です。イエスが語られる罪とは私たちの社会が定める法規に対する違反=犯罪行為のことではありません。私たち人類を創造された神が、私たちが幸せに生きることが出来るようにと定められた神と人との関係や、人と人との関係を壊さずに良好なものとするための掟を守らないことです。イエスは神に赦されたいと願っていた当時の人々に神はすでに赦しておられると告げられ、聖書に記されていた覚え切れないほどの沢山の掟を「互いに愛し合いなさい」にまとめられ、人が幸せに生きるために不可欠な助け合いや励まし合い、分かち合うことを教えられ、さらには「愛し合う」ことを真似できるように実践して見せられました。

「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」とは、神は人間の罪をすでに赦しておられるのだから、後は人間同士の罪、お互いの過ちを赦せるか赦せないかにかかっているということです。他人を赦すということは口で言うほど簡単なことではありません。現在もなお続く戦争を思い浮かべれば大変な困難ですし、身近な間柄でも引きずり拘り続ければ以前の関係に戻ることはなかなかに難問です。だからこそイエスは許し合い、仲直りが大切だと教えられるのです。平和を拒むのは常に私たち人間の都合です。人間の都合が平和を拒むのであれば、その都合を何とかしなくてはなりません。平和を生み出すのは私たちにしか出来ないこと、私たちが為すべきことです。神は私たちに仲直りのために働き、幸せに生きることを求めておられます。

2026年4月13日

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